全力迷走日記

頭の中身を整理するために書くにゃん

確定申告が終わったにゃん!!!

期限まで1カ月以上を残し、吾輩、本日、確定申告書類を完成させたにゃん!!

すごいにゃんね!!!

 

吾輩は小さな自営業者なもんで、一つひとつの領収書を月ごとに振り分けて、やよいに経費を入力して、収入も地道に打ち込んでいたにゃんよ。

同じく個人経営している友人とLINEで朝方まで話ながら。

これは経費に入るのか、何の勘定科目に入るのかとか超初歩的な質問をしたり、そういえば学生時代の友人が飲み会の幹事をやって高額の領収書を溜め込んで接待交際費に計上して税務署に突っ込まれてたとかいう話をしたり、だらだら作業していたら午前6時には全部終わっていたにゃんよ。

 

いやぁ、Amazonの注文履歴を眺めていたら、吾輩、本当に金遣いが荒いなぁってびっくりしたにゃん。

一度しか使わないカバンとか、タンスの肥やしになっているガジェットとか、机の中の地層と化している文房具とか。昨日も話したけど、衝動買いの比率が高すぎて反省の嵐にゃんよ。

本当に必要なものって、多くないにゃんね……。

経費には計上していないけど、洋服なんか無駄の最たるジャンルにゃん。

吾輩、特にコロナ禍に入ってからは99%Tシャツと短パンで過ごしているにゃんよ。外に出かける時も、デニムとパーカーにゃん。ちょっとオサレな場所に行くときも、割とカジュアルにゃん。要するに、そんなにたくさん服を必要としないタイプにゃんね。

でも、タンスの中身をひっくり返してみると、一度しか着ていない服が結構あるにゃんよ。定期的に断捨離してるから、しょっちゅう捨てているはずなんだけど、それでも着ない服ってあるにゃんね。

その一方で、ヘビーユーズしている服もある。やっぱり何でも本当に必要なもの、本当に気に入ったものを吟味して買わないと、浪費どころか場所もとるし、捨てる手間も発生するにゃんね……。吾輩、取捨選択の重要性を再認識したにゃんよ。

 

なんで衝動買いの衝動って発生するにゃんね。

何かが足りないと感じる時にモノが欲しくなるのかにゃ……。

いずれにしても、何らかの欠乏感によるものだと吾輩は思うにゃん。

ということは、いくらお金を稼いだって、心の欠乏感が埋まらなければ、どんどんお金を浪費することになるにゃんね。

吾輩、お金は楽しいことや大切な人のために使いたいにゃんよ。

「何かが足りない」「これがあれば心の隙間を埋められるかも」って思ってしまった時の買い物は、少し思いとどまった方がいいにゃん。

たぶん、本当に必要なものを見ていないにゃん。

 

そんなことを思いながら、今日は早めに眠るにゃん。

 

お金はだいじだよ

コロナ禍に突入した2020年春、吾輩はまず金の流れを整理したにゃん。

未曾有の危機に直面し、みんな大混乱に陥った。吾輩の働く業界もこれからどうなっていくのか分からなくなったにゃんよ。

 

吾輩は金遣いが非常に荒く、すべてにおいてどんぶり勘定で、毎月どれくらいの収入が合ってどれくらいの支出があるかよく分かっていなかったにゃん。

ざっくり預金残高と財布の中身を見ながら、飲み歩いたり好きなものを買ったりしていたにゃ。

キャッシュフローは何とか回っているけど、貯金は全くできていない。

 

このままじゃダメにゃん!これから仕事が減ってしまったら大変だにゃんよ!

吾輩はコロナ危機よりも経済危機に恐怖を感じ、家計簿アプリと取引先の金融機関アプリと使用しているクレジットカードアプリを導入し、毎日の収支を入力&観察するようになった。

 

そしたらびっくりよ。吾輩は想像より2倍の金額を使っていたにゃん。

よくキャッシュフローが回っていたにゃんね……。貯金どころじゃないにゃん……。

一体何に使っているにゃん…?調べてみると、ほとんどが趣味!衝動買い!

趣味のものや衝動買いのものでも、大事に使って大好きなものならいいかもしれないけど

結局タンスの肥やしになっているものが意外と多くて、何コレ買わなくてもいいじゃんみたいな。

コロナ前だったら、これにプラス飲み代や遊興費が重なるんだから、大変な事態だったにゃん……。

吾輩、しっかり経済観念ができていたら、もしかするとこれまで結構貯金できていt……いや、考えちゃいけないにゃん!!!

「今」が人生のうちで一番若いってみんな言ってるにゃん!!

これから気を付ければいいにゃんよ!!!

 

家計簿を付け始めてからも、長年染みついた浪費癖はすぐに治ることはなかったけれど、

少しずつ、少しずつ、支出を抑えるようになった。

同時に「断捨離」も定期的にやっていたので、いかに無駄なものを買っているかを実感するようになったにゃん。

断捨離、マジでオススメにゃんよ。家の中もすっきりするし。

 

それでも、欲しい!という衝動に駆られることがある。

その場合は、基本的には通販で買わないことがコツにゃん。

実際に見て、手に取って決断すること。

それが叶わないうちは、買わない方が無難にゃん。

 

でもね。

こんな風に節約を意識するようになったわけだけど、別に生活レベルは変わっていないにゃん。

食べるものも、着ているものも、使っているものも、そんなに変わっていない。

まぁ、コロナだから遊興費はすごく減っているけれど、だからといってストレスも感じていない。

それだけ「なくてもいいもの」にお金を使っていたにゃんね……。

 

無駄なもの、無駄なことにどれだけエネルギーを使ってきたんだろう。

お金に限らず、時間や、労力も。

コロナによって、本当に大事なものは何だろうって考えるようになったにゃん。

中でも一番分かりやすいのが、お金の流れだったにゃんね。

 

コロナ禍がはじまってから、いやなものを削りまくってきた

自分にとっての「いやなもの」がはっきりしてきてしまった。

 

「いやだ」という感覚は、実際に何らかの物事に直面しないと感じることができない。

仕事でも、人間関係でも、身のまわりのモノでも、経験したり関わったり触れたりすることで「うわ、これやりたくねぇ」とか、「こいつとは関わりたくねぇ」とか、「これは即座に捨てたい」と分かる。

 

吾輩は長い間、嫌なものに囲まれてきた。例えば仕事。興味がないまま、いつか役に立つかもしれないと思ってやり始め、何年もやっていればだんだん興味が湧いてくると言われて10年以上続けてきた。確かに普通の人より知識は増えたけれど、これを掘り下げてどんどんスキルを磨いていこうなんていう気持ちにはなれなかった。

逆に、その仕事が苦痛になってきた。特には身体全体が拒否反応を示して動けなくなった。なんでこんなにいやなのかな。仕事ができなくなって周りの人たちに迷惑をかけるたびに考えていた。

理由は自分が一番感じていたことだったかもしれない。何をどうがんばっても、「つまらない」という気持ちが消えなかったから。

まぁ、1000歩譲って、人から感謝されたり、評価されるようなことがあれば、もう少し頑張れたかもしれない。でも、別に感謝されるようなこともないし、何かを達成した気持ちにもなれないし、成長を感じることもなかった。

 

贅沢な悩みだったのかな。でも、いやでいやで仕方なかったのは避けられなかったもんな。なるべくしてなったんだ。

 

いずれ限界は来ていた。だましだまし続けてきただけだということは分かっていた。何年も前から、仕事がいやでできなくなるという形でサインがたくさん来ていたんだもの。

 

これってさ、人間関係も同じだよね。場所とかモノでもそうかもしれない。

一緒にいると、いつの間にか苦痛を感じるようになってきて、我慢するんだけどやっぱりダメで、もう無理ってなって別れてしまうとか。

気に入って買ったはずの靴がすこし足に合わなくて、痛くても履き続けるんだけど我慢できなくて、最終的にどうしても痛みに耐えられず脱いでしまうとか。

「いやだ」っていう感覚からは逃れられない。無視したら自分がどんどん歪んでしまう。

 

そんな中で2020年がやってきて、コロナ禍に突入した。

 

人や物事の間に自然に距離を取らざるを得なくなり、吾輩はとてもとても楽になった。

 

他者や仕事に割く時間が減り、自分の中に余裕ができたことで、何がいやだったかがクリアに見えてきた。すると、もう我慢ができなくなる。いやだって気付いちゃったから。

終わりが見えると、執着もなくなる。

すると、自然と手から離れてゆく。

 

いやなもの、いらないもの、重たいもの、

どんどん削っていったよ。

家の中の断捨離もしたよ。人ともお別れしたよ。いやな仕事も離れていったよ。

 

幸い吾輩には贅沢さえしなければ困らない生活とお金があり、元々人との関わりに疲れてしまう性分から巣ごもりには苦労しなかった。

もちろん、仕事がどうなるか分からない焦りは確かにある。これまでの積み重ねがガラガラと崩れていくんじゃないかという恐怖もある。今後もどうなるか分からない。めっちゃ怖い。

でも見方を変えれば、自由な時間と不自由のない生活環境がある今は、自分をもう一度見直して軌道修正するチャンスなんじゃないか。

 

そんな風にも思う。やっぱり怖いけど。

 

今、吾輩は、馴染みの仕事仲間と苦痛じゃない範囲で仕事をしつつ、ゆったりした生活を送っている。

ゆるやかな時間の中で、これからの生き方を模索している。

ずっと自分に嘘をついて、追い込んで生きてきたからね。

本当に好きなものってなんだろうって、分からなくなっちゃったんだよ。

だから、今は自分を取り戻す時間なんだと思う。

 

自分のために、何ができるかな。

大事な人たちのために、何ができるかな。

両方とも必要。